神奈川県横須賀市浦郷町には、歴史の授業で学んだ西南戦争の兵士の墓地があると知りました。
歴史に疎い自分でもの熊本・宮崎・大分・鹿児島が戦場になったと知っているけども、なぜ神奈川県横須賀市に?
現地で見た解説板を見ると
西南戦争政府軍の戦傷病者が九州から帰航中に船内でコレラが発生。
急遽 箱崎にて仮の避病舎を建て対応するも、故郷を目の前にして多くの方が亡くなってしまった。そして48名の墓石が今も静かに横須賀の地に眠っているらしいです。
そんな追浜官修墓地を訪ねてきたという、コレは誰のためにもならない個人的な備忘録となります。
※ 詳しい歴史等を知りたい方には参考になりませんよ~
西南戦争の中でも一番の激戦地区とも名高い場所:田原坂にも過去には訪問してます。
九州が舞台だと思っていたので、横須賀の地で西南戦争というワードを聞くとは思ってなかった。
追浜駅からひたすら歩いてきたました。
他のスポットに寄りつつ来たので少し遠かった。
なんだよ~目の前までのバス停あったのかと、時刻表を見ると朝に全振りしたダイヤだった。
※訪問時なので現在は不明
追浜官修墓地の詳しい場所がわからないまま現地まで来てしまった。Googleマップを見ても大雑把な感じでしか掴めていない。
とにかく追濱隧道の近くに階段が目印がある! とそれだけを頭に入れてきた。
あった 隧道手前に『官修墓地』と書かれた石碑。
正直 この石碑が無ければわからなかった。
入口石碑の裏側には 『昭和四十年七月建之』 と見える。
元々は黒﨑の地に埋葬されたが、大正2年に現在地に移葬されたらしい。その後も修復が繰り返されている。
隧道では車の往来は多かったけども、人の往来をまったく感じられない階段。
ついさっき入口石碑を見たばかりなのに道は合っているのかと不安になる。
階段を登ると画像のような切り返しの場所に。この少し先に目的の追浜官修墓地があるようだ。
画像に写らないよう撮影したけども、背後には道が続いており民家もあった。
YouTubeでこの地を検索すると、心霊スポットと騒ぎ訪問している人はただの迷惑だね。
立派な追浜官修墓地の説明板。
横須賀風物百選という言葉も初めて知った。
昼間だというのに、なんだかちょっと緊張がしてしまった…。
まずは静かに手を合わせる。
お骨等は無く墓石が並んでいる追浜官修墓地
青森県の八甲田雪中行軍遭難事件の幸畑陸軍墓地とは随分と異なる印象。
なんというか人の手が加わっているけども、間が空いてしまっているような…
ほとんどの墓石には修復された跡がある。
気になったので調べたら、関東大震災の影響で倒れたり、昭和8年に何者かによって墓石全部が倒される事件があったらしい。
墓石の日付を確認すると明治十年十月十八日死。 その並ぶ墓石には明治十年十月二十一日死とある。
他の墓石の日付も、まとめてくれてるサイトがあったので参考にすると、10月18日から11月11日の間で亡くなられているそうだ。
自分達もついこの間までコロナに生活スタイルを変えられる経験を経たばかりなのに、伝染病の恐ろしさを改めて思い知りました。
顕彰碑
なんて書いてあるのか自分にはさっぱりわからないけど、昭和8年とあるので何者かに倒された墓石を修復するさいに建てられたのかなと想像。
墓石には陸軍・警部補・巡査・士族という階級も確認できた。
西南戦争では多くの警察官が導入されたと知っていたけども、こんなかたちで再認識するとは…
歴史の教科書でも学んだ国内最大規模の内戦:西南戦争。
神奈川県に住んでいる自分には、西南戦争って遠く九州で起きた出来事だな~という考えがあったけど、それが間違えていると教えてくれた追浜官修墓地。
最後にもう一度手を合わせ静かに帰宅。
ちなみにココで何か不思議な体験とはありませんでした。 まあ 当たり前だけども