沖縄に行ったら訪問してみたいと思っていた場所、沖縄県那覇市にある対馬丸記念館です。
ようやく訪問できたので、その備忘録となります。
疎開船「対馬丸」とは?
太平洋戦争中の1944年8月、疎開船として民間人や児童ら計約1,700名を乗せて那覇から長崎へ向かう途中、アメリカ海軍からの魚雷攻撃を受け沈没した(後述)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
だいぶざっくりな説明になってしまうが、このブログで詳細を綴っても仕方ないので、気になる方は各自で調べて、あらためて対馬丸の悲惨さを知って欲しい。
自分が 疎開船「対馬丸」 を知ったのは、自分が子供の頃 夏休み中の昼過ぎに偶然見たアニメ映画『対馬丸-さよなら沖縄-』だ。乗船客約1800名のうち学童784名を含む1484名(氏名判別者数)が犠牲になったアニメ映画は、はだしのゲンのようなトラウマになるレベルで戦争の悲惨さを心に残してくれた。
気になる人は見て欲しい
対馬丸記念館へ行ってみた。
そんな対馬丸をさらに知りたくなり訪問したのが、沖縄県那覇市にある『対馬丸記念館』
那覇空港からほど近くで有名な「波の上ビーチ」の近くからも十分に歩いてこれる距離だ。
受付は2階からとなるけども、1階からでも職員さんに声掛けすれば入館出来るので、脚に自信がない方も安心。
訪問時 猛烈な雨に襲われ、外観の写真が取れてないけども、対馬丸への乗船をイメージさせる建物になっているよだ。
2階からの見学ルートの意味
入館料を支払い見学開始。 まず大きなスクリーンで対馬丸についてまとめた映像が見れる。
スクリーンの手前には、簡素な筏にしがみつく小柄な人形が見える。 これは1階の常設展でも説明してくれるけども… 対馬丸がアメリカ潜水艦に攻撃され、漂流している子供達が必死に筏にしがみついている様子を表現しているようだ…心が痛い。
疎開船『対馬丸』は、軍艦でもなく古い貨物船。 だけども兵員輸送にも使われていた関係で、甲板には大砲も備え付けられていたらしい、そんな対馬丸が学童疎開船として使用された。
護衛していた軍艦も、貨物船が疎開船として使用されているとは知らされてなかったらしい
対馬丸には推計だが、船員や兵員を含めると1.800人が乗船。
対馬丸では、船首側の船倉に学童、船尾側の船倉には一般の疎開者が主に振り分けられた。
窓一つない船倉にすし詰めになって雑魚寝をする子供達、 そんな対馬丸が深夜に襲われて甲板に出る階段の高さは、この建物1階から2階で表現しているようだけども
そのルートも画面右側のような梯子だったらしい。当然 逃げ出そうとする人達で渋滞…
その時の様子を想像しようとするだけでも、本当に恐ろしい
漂流者同士による筏の奪い合い、そんな凄惨な状況を見た子供たちが綴った生々しい文章も展示されてるけども…胸に突き刺さる内容ばかり。
8月とはいえ、寒さ、サメ、空腹、渇き、そんな状況で精神崩壊してしまう人もいたようだ。
見学ルートとずれた画像になるけども、疎開船『対馬丸』のことだけじゃなく、
なぜ疎開が必要だったのか? なぜ疎開の奨励? などの疑問にも時系列を踏まえ解説してくれる。
こんなサイズが小さい着物にも、鉄かぶと、ラッパ、日の丸などが描かれてる…
本来ならば明るい声が聞こえてくる教室、疎開先でも学校を楽しみにしていたと思うと胸が痛む。
当時 この『対馬丸事件』については疎開計画のためか、箝口令が発令された。
対馬丸事件から、約2か月後 沖縄本土も大空襲「十・十空襲」があり、遺影や遺品はほとんど消失してしまったけども、ここ対馬丸記念館では数多くの写真やイラスト、復元物などにより悲劇の疎開船・対馬丸を語り掛けてくれます。
最後に、改めて対馬丸撃沈事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。終