前回 野生のうさぎと触れ合える「ウサギの島」として大久野島をブログでも取り上げました。
国内だけじゃなく、世界規模で知られるような大久野島ですが、1929~1945年(昭和4~20年)まで島内では毒ガスを製造してたという歴史もあります。
重大な国家機密の島だからこそ、戦時中は地図からも消されていたこともあったようです。今も大久野島では多くの戦争遺跡が残っているだけじゃなく、大久野島で毒ガス製造の歴史などを伝えてくれる施設「大久野島毒ガス資料館」があるので、そちらもうさぎたちに癒されつつも見学訪問してきた個人的な備忘録となります。
前回ではフェリーに乗船からうさぎと戯れを記載。
戦時中の呉線では大久野島が近づいてくると鎧窓を下すよう乗客に命令があった! という証言もある。それは大久野島の軍事秘密を防ぐため。
大久野島は冒頭でも触れたように「毒ガス島」の歴史もあったけども、実はそれ以前の日露戦争前からも軍事的に重要な島でもあったらしい。 地図から消えた理由が毒ガス島だったからなのかは調べたけどわからなかった。
大久野島では桟橋とホテルの間を無料のシャトルバスが運行しており、ホテル宿泊客じゃなくても利用できるようだ。 運転手さんに聞くと「大久野島毒ガス資料館」でも途中下車できるようなので利用させてもらった。
改めて大久野島のマップ。 島周囲は約4キロで徒歩で70分ほどで歩けると案内があった。
一部区間無料バスに乗れたのはラッキーだった。
到着しました「大久野島毒ガス資料館」
最初到着したときは9時の開館前だったので他を見学してから再訪。
大久野島での毒ガス製造時代の歴史解説・展示だけじゃなく、今も世界では使用されている毒ガスの悲惨さを訴え平和を願う施設。 思わず目を背けたくなるような写真などもあった。 1988年(昭和63年)に建設
製造コストが安く、殺傷能力が高いため「貧者の核兵器」とも呼ばれる化学兵器。
ここ大久野島で旧日本軍も毒ガス製造
資料館内部は撮影禁止となっているけども、屋外にも一部展示があり無料で見れます。
陶磁器製毒ガス製造器具 製造部品の主要な部品には画像のような陶磁器が使用。薬品に反応せず、熱にも強いというのが理由。
島内には約600~900羽のうさぎがいるようで、広島県竹原市としても大久野島を「うさぎの島」として推している。※うさぎの正確な数は不明
画像はウサギの耳のかたちをした「集音器」
持参したキャベツはうさぎたちに大人気。
先発の観光客がドライフードをてんこ盛りで残していったけども、すぐにキャベツを食べてくれる。
大久野島毒ガス資料館で少し衝撃を受けた心をすっかりと癒してもらう。 ※えさの食べ残しはうさぎのためにも持ち帰りしましょう。
大久野島神社:一の鳥居は綺麗だったけども、拝殿は崩れかかっていた… なんだか見てはいけないものを見てしまった気分になる。
奥に見えるは殉職碑
令和になった今現在でも、毒ガス製造に勤めていた方々は呼吸器に障害を負うなど苦しんでいる。
毒ガス製造の工員たちの給与は危険手当など様々な手当もあり高給、召集が届いても条件により入隊延期が認めらるなど高待遇。
しかし製造施設での作業で、外傷のみならず呼吸器などの内傷中毒患者が相当数発生。
秘密保持のため自主的な退職は認められず、働けなくなって退職したとしても、軍から召集令状が来ることもあったそうだ。
三軒家毒ガス貯蔵庫跡
解説板によると、ここには猛毒で皮膚がただれる”びらん性毒ガス:イペリット”が貯蔵されてた台座跡。 今は台座しか残ってないけど、10トン入るタンクが6基設置されていたようだ。
神奈川県横須賀市にある 猿島 を訪問した時に見た戦争遺跡とは随分と雰囲気が異なるように感じてしまう。毒ガスという目に見えないものだからだろうか…
他にも長浦毒ガス貯蔵庫跡 などの戦争遺跡が大久野島には残っている。
しかし純粋にうさぎたちと触れ合いたい人達は、こうした巨大な遺構が目の前にあってもあってもスルーしてる。
島の北部までやってきた。 道を進んでいると何かが山になって落ちているのに気付く
おそらく当時使われていただろう陶器の残骸が普通に道端に残っていた。これは驚き
既に「大久野島毒ガス資料館」でも学ばせてもらったけども、化学変化で成分が変わるため金属製ができないため陶器を使用していた。
陶器の中身が人体に害しかない物が詰まっていたと思うと陶器の残骸でも恐ろしい…触るのもやめておいた。
そんな環境でも強く生きるうさぎ。 またしても癒してくれる。
見て見たかった火薬庫跡は台風の影響で歩道の安全が確保できてないという理由立入禁止となっていた。※訪問時のみ
戦後 大久野島をアメリカ軍が接収し、朝鮮戦争時(1948年)には、アメリカ軍がそのまま活用したそうだ。
次に道沿いに出現した戦争遺構:砲台跡。
大久野島島内には北部・中部・南部と三か所の砲台が設置され、22門の大砲があったそうだ。
ただこれらは太平洋戦争よりも前の日露戦争開戦前には設置されていたようだ。 大久野島はもともと要塞化していたことがわかる。
大久野島で有名な戦争遺構である発電所跡
以前は内部にも入れたようだけど、今は建物周囲に柵が設けられており近づく事も出来ない。
建物内では風船爆弾の風船を、動員学徒の女学生たちが和紙とこんにゃく糊で作っていたそうだ。
風船爆弾での想定していたような戦果は得られなかったようだが、アメリカでは生物兵器を搭載されることなどを危惧するなど心理的効果は絶大だったようだ。
※風船爆弾の不発弾に触れ被害にあった民間人は6名いる
発電所跡は海から近いけども海からは見えずらいように目隠しのために土塁を築造。
当時は島全体が植樹され、人工物は迷彩柄になっていたようです。
今も大久野島には戦争遺跡が残っていますが、終戦直後に毒ガスに関する資料は秘密保持のため真っ先に破棄されているため詳細は不明。
戦争遺跡の保存も修繕予定もないため少しずつ、でも確実に朽ちていくのみのようです…
戦後 毒性除去のため火炎放射器で焼き払われたりしましたが、一部の軽微な嘔吐剤は海に沈めたり、土に埋めたりと…不適切な処理があったようだ。 実際 1997年の島の一部では環境基準を大幅に上回る汚染が認められている。 大久野島周辺環境の調査を定期的に実施されており、今は安全確認はされているようだ。
うさぎたちが無邪気にえさを求めて駆け寄ってくる何ともいえない癒しと、平和の尊さを体験。
本当に訪れてよかったと思えた大久野島